濁酒
蔵は昭和7年より奈良県神社庁の委託で、「新穀感謝祭」(※)のお神酒としてこの濁酒を年間約1800本お造りし、伏見稲荷大社など県内・近県の神社にお納めしておりました。
当時 濁酒が完成すると、蔵にお祀りしている神様に感謝と報告を兼ねて、毎年11月中旬に「完醸祭(かんじょうさい)」(※)を行いました。
平成12年 濁酒の仕込み後の休造を機に、平成13年より他社様にお神酒造りをお願いすることとなりました。
しかし、これまで受け継いできた「水もと仕込み」の製造方法を、私どもの代で絶やしてしまってもいいのだろうか・・・との思いもございました。
この思いををご理解下さった地酒専門店の方々のお力添えのもと、蔵再開2年目の平成16年より濁酒の仕込みを再開させて頂く運びとなり、そして それまでお神酒用にのみお造りしておりました濁酒を製品化させて頂くことになり、今に至っております。
その後、またご縁がございまして、神社庁さま向け「新榖感謝祭」のお神酒を、平成28年秋より再度委託いただくこととなりました。
当時 濁酒が完成すると、蔵にお祀りしている神様に感謝と報告を兼ねて、毎年11月中旬に「完醸祭(かんじょうさい)」(※)を行いました。
平成12年 濁酒の仕込み後の休造を機に、平成13年より他社様にお神酒造りをお願いすることとなりました。
しかし、これまで受け継いできた「水もと仕込み」の製造方法を、私どもの代で絶やしてしまってもいいのだろうか・・・との思いもございました。
この思いををご理解下さった地酒専門店の方々のお力添えのもと、蔵再開2年目の平成16年より濁酒の仕込みを再開させて頂く運びとなり、そして それまでお神酒用にのみお造りしておりました濁酒を製品化させて頂くことになり、今に至っております。
その後、またご縁がございまして、神社庁さま向け「新榖感謝祭」のお神酒を、平成28年秋より再度委託いただくこととなりました。
※「新穀感謝祭」は宮中での「新嘗祭・にいなめさい」にあたります。
11月23日(今の勤労感謝の日)に天皇が神々に新米を供え、またご自身でも召し上がる、その年の収穫を感謝する祭儀のことです。
11月23日(今の勤労感謝の日)に天皇が神々に新米を供え、またご自身でも召し上がる、その年の収穫を感謝する祭儀のことです。
※完醸祭
お神酒用の濁酒(だくしゅ)をお造りしていた頃、蔵には年に何度か神社庁から神主様が来られました。
斎田(さいでん:濁酒用の米を栽培する田)で、種蒔き・田植え・稲刈りの前などにご祈祷をしていただくためです。例年11月16日頃、蔵の入り口からお神酒蔵にかけて紅白の幕がはられます。この日は20人以上の神主様が蔵に来られ、無事 濁酒が完成したことを蔵に祀る松尾様をはじめ、大物主神(おおものぬしのかみ)、少彦名神(すくなひこなのかみ)、産土神(うぶすなのかみ)などの神々に感謝し、地域の方へのお披露目を兼ねて完醸祭(かんじょうさい)が行われました。
お神酒用の濁酒(だくしゅ)をお造りしていた頃、蔵には年に何度か神社庁から神主様が来られました。
斎田(さいでん:濁酒用の米を栽培する田)で、種蒔き・田植え・稲刈りの前などにご祈祷をしていただくためです。例年11月16日頃、蔵の入り口からお神酒蔵にかけて紅白の幕がはられます。この日は20人以上の神主様が蔵に来られ、無事 濁酒が完成したことを蔵に祀る松尾様をはじめ、大物主神(おおものぬしのかみ)、少彦名神(すくなひこなのかみ)、産土神(うぶすなのかみ)などの神々に感謝し、地域の方へのお披露目を兼ねて完醸祭(かんじょうさい)が行われました。
水酛(水もと)とは・・・
約600年前、奈良市郊外にある菩提山:正暦寺において創製された酒母のこと。
現在普及している速醸もとや生もと系酒母の原型であると、考えられています。
現在普及している速醸もとや生もと系酒母の原型であると、考えられています。
水酛仕込み濁酒(みずもとじこみだくしゅ)
酒母の育成段階で生米を使用すること、酒蔵に住み着き 野生化した酵母と乳酸菌の働きを生かすことが特徴で、全国でもこの古典的な製造技術をもつ蔵元はほとんどありません。
本品は 発酵した「もろみ」を漉さずにそのまま瓶詰めしておりますので、「飲む」と言うより「食べる」ような感覚のお酒です。ボディと上品な酸味があり、スッキリとして口当たり良く、溶解・軟化した米粒が口中で新鮮な感じを与えてくれます。
本品は 発酵した「もろみ」を漉さずにそのまま瓶詰めしておりますので、「飲む」と言うより「食べる」ような感覚のお酒です。ボディと上品な酸味があり、スッキリとして口当たり良く、溶解・軟化した米粒が口中で新鮮な感じを与えてくれます。
濁酒商品一覧
掲載いただいた記事のご紹介
昭和7.10.1.以降(年は下記の「新嘗祭の神酒醸造」より推測) 新聞社は不明
2010年の秋、濁酒の仕込みを始めさせていただいた頃、蔵内から この切抜きを見つけました。
初代勝治さんの奥様すへのさんが大切にしまっておられたようです。
初代勝治さんの奥様すへのさんが大切にしまっておられたようです。
「清酒は不可と 神職会が今秋から」
県神職会では 新嘗祭の神饌が 近来古式を離れて清酒に代用されているので 之れを昔の如く 濁酒として 祭典をあくまで古式に則り厳かに執行せんとする目的のもとに 税務当局に其の醸造方を申請中だったが、10月1日付を以て 北葛城郡五位堂村大倉勝治に醸造の免許を与えて来た。
右(上)は大正3年3月内務省令 官国弊社神社祭式の内、新嘗祭祝詞「八束穂の秋の初穂を御食御酒に仕へ奉りて」によったものである。
県神職会では 新嘗祭の神饌が 近来古式を離れて清酒に代用されているので 之れを昔の如く 濁酒として 祭典をあくまで古式に則り厳かに執行せんとする目的のもとに 税務当局に其の醸造方を申請中だったが、10月1日付を以て 北葛城郡五位堂村大倉勝治に醸造の免許を与えて来た。
右(上)は大正3年3月内務省令 官国弊社神社祭式の内、新嘗祭祝詞「八束穂の秋の初穂を御食御酒に仕へ奉りて」によったものである。
「大美和」72号 昭和62.1.1.発行
年に2回、1月と7月に発行されている大神神社の社報「大美和」72号に寄稿された、元県社寺課長 松本様の論文の一部です。
―敗戦により社格や様々の制度が廃止、改められ、著しく様変わりして行く中、当時(昭和62年)まで引き継がれ、実施されているものの一つが新嘗祭の神酒醸造である―
と記されています。
しかもこれは松本様が在職中にはじまったことなのだそうです。
―敗戦により社格や様々の制度が廃止、改められ、著しく様変わりして行く中、当時(昭和62年)まで引き継がれ、実施されているものの一つが新嘗祭の神酒醸造である―
と記されています。
しかもこれは松本様が在職中にはじまったことなのだそうです。
奈良県神職会定期総会並びに臨時総会において、嘗祭神酒醸造の件を大倉勝治に委託する――と満場一致で決議され、その後、免許を申請。(10月1日付けで所轄の葛城税務署より)
「製造場は清酒製造場の一部を別区画となし、免許申請書に添付せる図面の通りとすること」等、7項目の条件のもと免許されたことが書かれています。さらに初回の祈醸祭並びに完醸奉告祭についての報告が以下のように続きます。
「製造場は清酒製造場の一部を別区画となし、免許申請書に添付せる図面の通りとすること」等、7項目の条件のもと免許されたことが書かれています。さらに初回の祈醸祭並びに完醸奉告祭についての報告が以下のように続きます。
奈良県神職会報(昭和7年11月第155号21頁以下)
「さきに本会総会に決議せられた新嘗祭神酒の醸造は、北葛城郡五位堂村大字鎌田大倉勝治氏に依嘱せられたところ、さる10月25日これが祈醸祭を執行された。その概況は
午前11時当麻山口神社々掌高津清臣氏斎主となり、斎員は北葛城郡神職4名奉仕、各郡市支部長、佐々木税務署長代理、当麻、五位堂村長等をはじめ約30名参列、その後20数日大倉勝治氏においては、新築の醸造場において酒造器具一切を新調の上、謹醸中のところ、香り高き神酒10余石は11月17日目出度醸造完成、即日完醸奉告祭が執行された。当日午前10時30分高津清臣氏斎主、斎員は北葛城郡神職5名奉仕、丹羽葛城税務署長、田村同間税課長、各郡市支部長、当麻、五位堂村長等参列、いと厳かに祭典を終了。
醸造成った濁酒は、11月18日より20日までの間に各郡市支部を経て各神社へ送り、11月23日よりの新嘗祭に奉献する。」
と報じられております。
「さきに本会総会に決議せられた新嘗祭神酒の醸造は、北葛城郡五位堂村大字鎌田大倉勝治氏に依嘱せられたところ、さる10月25日これが祈醸祭を執行された。その概況は
午前11時当麻山口神社々掌高津清臣氏斎主となり、斎員は北葛城郡神職4名奉仕、各郡市支部長、佐々木税務署長代理、当麻、五位堂村長等をはじめ約30名参列、その後20数日大倉勝治氏においては、新築の醸造場において酒造器具一切を新調の上、謹醸中のところ、香り高き神酒10余石は11月17日目出度醸造完成、即日完醸奉告祭が執行された。当日午前10時30分高津清臣氏斎主、斎員は北葛城郡神職5名奉仕、丹羽葛城税務署長、田村同間税課長、各郡市支部長、当麻、五位堂村長等参列、いと厳かに祭典を終了。
醸造成った濁酒は、11月18日より20日までの間に各郡市支部を経て各神社へ送り、11月23日よりの新嘗祭に奉献する。」
と報じられております。
(中略)
即ち春の祈年祭には五穀の豊穣を祈り、併せて新嘗祭の厳修を神明に誓い、秋の新嘗祭にはかくして収穫した新穀を御食、御酒として献供することと皇室、国民の繁栄とを祈願しております。
しかし、いかがでしょうか。ご承知のように昔も今もお酒醸造の最盛期は毎年の厳寒期であり、市販の酒類に依存していたのでは、祝詞で神さまに奏上するように、新穀で醸造した神酒を11月23日の新嘗祭に献供することは事実上不可能なのでありました。前述した神職会の決議―当局への許可申請はこれを解消して、祝詞奏上どおりの祭儀を執行するための措置だったわけであります。
この神酒を醸造するには、地元の斎田で播種祭、田植祭、抜穂祭の諸祭儀を、大倉の酒造場では祈醸祭、完醸祭を厳粛に執行されましたが、斎田の諸祭儀には地元の学童の、祭儀万般については北葛城郡支部の絶大な協力を戴きました。所轄税務署への説明、陳情には同じ北葛城郡内に鎮座の広瀬神社宮司山川鶴市氏にも出動を願い、わけても北葛城郡支部長(葛木二上神社社司)蟹守箒木氏には、醸造先の銓衝から地元との交渉、祭儀一切について格皎の協力を煩し、特に祭儀については以後任せきりの状態でありました。
まだ論文の途中ながら、残念ながら、ここまでしか手もとにございません。
即ち春の祈年祭には五穀の豊穣を祈り、併せて新嘗祭の厳修を神明に誓い、秋の新嘗祭にはかくして収穫した新穀を御食、御酒として献供することと皇室、国民の繁栄とを祈願しております。
しかし、いかがでしょうか。ご承知のように昔も今もお酒醸造の最盛期は毎年の厳寒期であり、市販の酒類に依存していたのでは、祝詞で神さまに奏上するように、新穀で醸造した神酒を11月23日の新嘗祭に献供することは事実上不可能なのでありました。前述した神職会の決議―当局への許可申請はこれを解消して、祝詞奏上どおりの祭儀を執行するための措置だったわけであります。
この神酒を醸造するには、地元の斎田で播種祭、田植祭、抜穂祭の諸祭儀を、大倉の酒造場では祈醸祭、完醸祭を厳粛に執行されましたが、斎田の諸祭儀には地元の学童の、祭儀万般については北葛城郡支部の絶大な協力を戴きました。所轄税務署への説明、陳情には同じ北葛城郡内に鎮座の広瀬神社宮司山川鶴市氏にも出動を願い、わけても北葛城郡支部長(葛木二上神社社司)蟹守箒木氏には、醸造先の銓衝から地元との交渉、祭儀一切について格皎の協力を煩し、特に祭儀については以後任せきりの状態でありました。
まだ論文の途中ながら、残念ながら、ここまでしか手もとにございません。
2000. 5.13 奈良新聞紙上で「水もと」による濁酒造りが紹介されました
文中、先代も「水もとによる濁酒造りは昭和3年頃から。」とおっしゃていて、醸造開始年度を これまではっきり知ることが出来ませんでした。
今回、上の2つの資料から、正しくは昭和7年から―だと分かりました。ここでお詫びし、訂正させていただきます。せっかく新聞に載せていただけると言うのに、先代は普段どおりジーパンに草履姿でした。
「お神酒醸造の老舗、伝統的な製法を守る」
今から五百年前の室町時代に、奈良市菩提山町の正暦寺で行われていた酒造方法を復活させた菩提(もと)に近い伝統的な酒造方法を、今も続けている酒造メーカーが県内にあることが分かった。菩提の復活の貴重な参考となった。復活に取り組んでいる県工業技術センターの研究員が明らかにした。同センターは平成九年から、菩提の復活に取り組み、昨年と今年、県内の酒造メーカー十社余りがこれを使って酒を仕込み、市販している。
菩提復活の参考となった酒造方法は、神社で使われるお神酒を造る水と呼ばれるもの。香芝市鎌田の蔵元:大倉本家(大倉勝彦代表取締役)が続けている。創業約百年の老舗で、水による酒造りは昭和三年ごろから始めたという。
同センター食品技術チームの松沢一幸主任研究員によると、菩提を復活させるにあたり、最初は室町時代の古文書「御酒之日記」「多門院日記」などの菩提についての記述を基に、とりあえず酒造りを試みたが、酒質を安定させることが難しく、技術的分析をすることにした。
気温の高い時期の醸造メカニズムの研究中に偶然、県内に菩提とほぼ同じ工程を経る醸造法で酒造りを行っている蔵元があることを知り、その工程について蔵元と研究することになったという。
同社は現在、神社庁からの委託で、水によってお神酒を年間約千八百本生産。県内の数多くの神社と伏見稲荷などの近県の神社に納めている。主に神社が祭礼用に使う
お神酒などを造る濁酒(だくしゅ)の免許を所持している。
水は菩提と異なり、工程上、ろ過を経ないのでできた酒は濁り酒。いわゆるどぶろくに酒税法上分類される。同免許を所持する蔵元は県内唯一で、全国でも二つしかないという。
大倉代表は「確かに製造に手間は掛かるし一般向けに売るわけではないので、商売という側面からみると厳しい。しかし食糧事情がひっ迫した戦時中でさえ、これに使われる米は供出米から外された。そんな大事にされてきた伝統技術を、今後も守っていきたい」と話している。
今回、上の2つの資料から、正しくは昭和7年から―だと分かりました。ここでお詫びし、訂正させていただきます。せっかく新聞に載せていただけると言うのに、先代は普段どおりジーパンに草履姿でした。
「お神酒醸造の老舗、伝統的な製法を守る」
今から五百年前の室町時代に、奈良市菩提山町の正暦寺で行われていた酒造方法を復活させた菩提(もと)に近い伝統的な酒造方法を、今も続けている酒造メーカーが県内にあることが分かった。菩提の復活の貴重な参考となった。復活に取り組んでいる県工業技術センターの研究員が明らかにした。同センターは平成九年から、菩提の復活に取り組み、昨年と今年、県内の酒造メーカー十社余りがこれを使って酒を仕込み、市販している。
菩提復活の参考となった酒造方法は、神社で使われるお神酒を造る水と呼ばれるもの。香芝市鎌田の蔵元:大倉本家(大倉勝彦代表取締役)が続けている。創業約百年の老舗で、水による酒造りは昭和三年ごろから始めたという。
同センター食品技術チームの松沢一幸主任研究員によると、菩提を復活させるにあたり、最初は室町時代の古文書「御酒之日記」「多門院日記」などの菩提についての記述を基に、とりあえず酒造りを試みたが、酒質を安定させることが難しく、技術的分析をすることにした。
気温の高い時期の醸造メカニズムの研究中に偶然、県内に菩提とほぼ同じ工程を経る醸造法で酒造りを行っている蔵元があることを知り、その工程について蔵元と研究することになったという。
同社は現在、神社庁からの委託で、水によってお神酒を年間約千八百本生産。県内の数多くの神社と伏見稲荷などの近県の神社に納めている。主に神社が祭礼用に使う
お神酒などを造る濁酒(だくしゅ)の免許を所持している。
水は菩提と異なり、工程上、ろ過を経ないのでできた酒は濁り酒。いわゆるどぶろくに酒税法上分類される。同免許を所持する蔵元は県内唯一で、全国でも二つしかないという。
大倉代表は「確かに製造に手間は掛かるし一般向けに売るわけではないので、商売という側面からみると厳しい。しかし食糧事情がひっ迫した戦時中でさえ、これに使われる米は供出米から外された。そんな大事にされてきた伝統技術を、今後も守っていきたい」と話している。
2006.12 「水もと仕込み」が奈良テレビで紹介されました
奈良テレビ放送『気になる時間』で「日本清酒発祥の地 奈良で造る酒」と題した放送がありました。
大神神社や正暦寺とともに、当蔵の「水もと仕込み」による濁酒造りの工程や歴史を紹介させて頂きました。
大神神社や正暦寺とともに、当蔵の「水もと仕込み」による濁酒造りの工程や歴史を紹介させて頂きました。